s-コピー ~ 2018-04-14 005

 例えていえば、ある新興宗教団の信者のように、その団体に入会させるために、相手の迷惑を何らかえりみることもなく、毎日のように強迫的言辞で、入会をすすめている人々や、神様神様といいながら、やたらに人の悪口をいったり、人をさげすむ行為をしたりしている人々と、別に取り立てて神仏のことをいわないのに、常に困っている人たちの為に骨身惜しまず尽している人とのどちらが、神のみ心に適っているかということを考えれば一目瞭然です。
 神のみ心を隠す最大のマイナスの心は、自我欲望です。自分自分と、常に自己の欲望中心の想念行為です。それは金銭欲、権力欲、その他欲と名のつくすべての想念行為がそうなのです。そうした欲望を、宗教の名を借りて達成しようとしている人々が、どれだけこの世の中には多いことでありましょう。
 私はこうした宗教信仰者と称する人々に会う度びに、宗教の堕落が嘆かわしくなるのです。宗教信仰とは、言葉でとやかくいうことではない。その人の想念行為が、神のみ心の愛と調和にどれだけ適っているか、そうした道を突き進んでいるかによって、その深さ浅さを云々でき得るものであって、どんなに上手な言葉で神仏を説いたところで、その人の声に出る言葉の中に、その人の宗教心があるのではないのです。
 上手に文章を書いた、うまいことをしゃべった、と、自分の書いたり話したりしたことの成果に満足していることは、宗教心とはなんの関係もないことで、自分の心が愛の光で一杯になっている。愛さないではいられない。人の為を思わないではいられない。理論や理屈で思うのではなくて、人の喜びと自分の喜びとがいつも一つになっている。人の悲しみと自分の悲しみとが一つになっている。そういう実感が愛の心であって、これが宗教心の発露であり、世界平和を祈る心でもあるのですが、もう一歩進むと、そうした愛念にも把われない、澄みきった心でいて、そうした愛念さえも消えてゆく姿として、祈り一念の心、神のみ心の中に住んでいられる程になってくるのです。しかしこれは宗教の極意であって、誰もがそうした心境にこの世でなれるものでもないのですが、窮極は、何もの何ごとにも把われず、自然法爾に、神…のまま、生きる生命そのまま生きてゆくということになり、その生き方が、すべての人々の為になってゆく、ということになってくるのです。
 こうした心境になると、良心にも悪心にもそんな区別の全くない、大調和した想念行為になってくるわけなのです。すべては消えてゆく姿、ただ在るのは神の生命、神のみ心のみということになっているのです。
 宗教の世界というものは、我欲の無い世界であるのですから、いたずらに神様仏様といったところで、それが自己の我欲達成のためにいうのであったら、これは宗教心の蔽われている業想念であって、自己を磨くことにはなりません。ですから、現世利益だけをいつまでも求めている新興宗教の信者は永劫に、真実の宗教心を発露することはできないわけですが、守護神の慈愛というものは、いつまでもそうはしておかないもので、いつかは、そうした現象利益だけではおさまらぬ想いが心の底から湧いてきて、もっと高度の宗教にいつかは導かれてゆくものなのです。

「信仰と直感」著五井昌久より

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世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命が完うされますように

無限なる感謝



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