2018.04.03 宗教生活とは
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人間が真実の宗教生活に入り、意識的にせよ、無意識的にせよ、神との交流がすっきりした形で行われている場合は、生活の貧富にかかわらずその人は、心がおのずから明るく、自由に、不安の影なき 生活を送れるようになるものなので、宗教生活に入りながら、心に暗い影、恐怖の影があり迷いの想いにとらわれているようであっては、それは誤りの宗教生活であるのです。
 肉体人間の生活には、つねに死というものへの恐怖とそれにともなう様々な不安(老病貧苦など)があります。それは唯物論的生き方では、どうしても解脱し、超越し得ることはできません。
どうしてかといいますと、唯物論すなわち、五感に観ずる形の世界だけの探究では、真理を知り得ないからであります。
 いかに哲学的につき進んでも、その学問が行動として、実際体験にまで進まぬかぎり、その哲学は、ただたんに、知識欲を満足させるためだけであって、真にその人に真理を知らせるものではありません。真理を知るためには、ただ行為による体験的認識か、無我の全託かの二つよりないのであります。
 人間はいづこよりきたり、いづこにゆくか、人間とは一体何か、こうした疑問は哲学的疑問であり、これをなんらかの行動にうつして、自己全体で知ろうとするところから宗教がはじまるのであって、眼に見、耳に聞き、手にふれるこの現象生活の利害関係だけを問題にしての宗教入り、というのは、実は宗教の門に入ったのではなくして、いぜんとして、その人は唯物論の世界、肉体世界だけの人であるのです。ですから、神と人間との真実の関係や、与えられた生命の正しい生かし方を教えず、その場その場の現象利益だけを与えたり、あてもの的にものを教えたり、教わったりするだけで、宗教であるとか、宗教信者であるとか思ったりしたとすれば、それは、神のみ心にかなう生き方ではなく、業因縁的、たんなる生活の方法でしかないのであって、とうてい死の恐怖を超越する自覚や、それにまつわる不安にまけない自覚をもち得ることはできないのであります。
 その場その場の幸不幸だけを問題にして生活してゆくようでは、なかなか神への道に達することはできないのです。
 知識階級の人々や学者先生方の一部が、とかく宗教を馬鹿にしたり、問題にしなかったりすることは、現今までの宗教が、一般民衆の生活からはなれすぎたり超越しすぎていたり、形式的であったり、あるいは逆に現世利益的であり迷信的でありすぎて、崇高な精神的雰囲気を欠いていたりするからなのであります。真実に大生命(神)と人間(小生命)との正しい関係を説きあかし、人間が神との正しいつながりに入った時に、おのずから奇蹟と人々に思われるような現世利益が生じ、その信者の人々が、知らず知らず安心立命の生活に導かれているようなものがあったら、いつかはまじめに問題にし、探究してくることであろうと思います。
 宗教を口にする人々が、みなこのようになってくることを私はひたすら祈っているのです。

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「宗教と平和」 著五井昌久より

INFINITE PEACE

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