s-コピー ~ 2012-03-04 013



人間は肉体が生存しさえすれば、生きていると思っておりますが、真実の目から見ますれば、肉体が生きていさえすれば生きているということでも、肉体が灰になってしまったからその人は生存していない、というのでもないのです。
 人間というものの本体は生命そのものでありまして、ある時は肉体をまとって、この地球世界の物質界に、肉体人間として存在し、ある時は、その生命の光を霊界に止めておいて霊人として生活しているのであります。
 ですから、霊界にあろうと、肉体界にあろうと、生命が生き生きと働いていることが生きているということであって、生命そのものを眠ったような怠隋な状態において、肉体だけが生存していても、真に生きているというわけにはゆかないのです。真に生きるということは、大生命(神)の分生命(わけいのち)として、大生命つまり永遠に生き続ける生命の流れとしての自己の天命を生かしてゆくことでありまして、肉体人間としての自我欲望の満足のためだけに生活してゆくことではないのです。
 有名な葉隠武士道の一節に「武士道とは死ぬことに見つけたり」という言葉がありますが、常に死ということを胸中においておりますと、肉体の生活をいかに善く生きるか、いかに生命を立派に生かしきるか、ということが立派な死につながることになってきます。立派に生き続けてきたことによって、死に際しても心が迷わず、安心立命して、あの世の旅に出られるのであります。
 それはどうしてかと申しますと、自己の生涯を顧みて、何ら心に恥ずることもなく、思い残すこともなく、一日一日を大義のための正しい生き方をしてきた、という満足感で死に際して心に安らぎが与えられるからなのです。死に際して、心が乱れず、思い惑わず、恐れず、安らかに行けるということは、これでよいのだ、という満足感が心になければならないのです。

s-2010-08-22 098


この世においても、あの世においても、人間として立派な善い生き方をするためには、本心を輝かして、神のみ心の通りに生きなければなりません。それにはどうしても潜在意識にひそんでいる、利己主義の想い、争いの想い、妬みや怒りや、反逆の想い等の神に愛のみ心に反する想念を消し去っておかなければいけません。そうしませんと、顕在意識で、人を愛そうと思い、人と争うまいと思っても、その表面意識を押しのけて、潜在意識から、憎しみや怒りやねたみや争いの想いが浮かびあがってきまして、自己の表面の意識の通りに自己の生活が成り立ってゆきません。
 そこで、いつまでも自己の安心立命の出来ぬ日々が続いてしまうのであります。私はこういうことがわかっておりますので、顕在意識も潜在意識もともに消えてゆく姿として、すべてを世界平和の祈りのような、人類愛の祈りの中に、守護の神霊への感謝の想いをこめて投入してしまうことを教えているのであります。
 そういたしますと、人間本来の生命の働きが大宇宙の運航の一環の流れとして、自由自在に働くことが出来るのです。これを釈迦牟尼世尊は、空という言葉で説き、イエスは神への全託と説き、老子は無為にして為せと説いてきたのであります。
 神道でいう神ながらの道というのもそういう原理なのです。神ながらの道、空から生まれ、無為により為り、全託の境地から輝き出る道こそ、生命いきいきと生きる道であり、神のこの道なのであります。そういう根本を忘れ、一時の成績をあげるため、その場その時の都合を良くするために、自己の日頃の精進努力を怠った結果を、催眠術によってカバーしようなどという魂胆の人があったとすれば、そんな人は、決して神のほめたまう人にはなりません。あくまで自己の精進努力によっておのずと道は開けるのであって、結果だけ良いものにしようとする方法は神のみ心に叶うことにはならないのです。 
 日々瞬瞬刻刻の善き道を行く習慣づけこそ、顕在意識と潜在意識との調和を成し遂げてゆくものでありまして、消えてゆく姿で世界平和の祈りによる光明思想を、自己の全人格として生きてゆくことが大事なのであります。

「運命を恐れるな」五井昌久 より


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊さまありがとうございます
守護神様ありがとうございます



INFINITE LIFE






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