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ssss-2013-02-17 023

日本人の中には、神という言葉を極度に嫌ったり、馬鹿にしたりする人たちがいる。この人たちは一体、神という言葉自体を嫌うのか、肉体人間以外の智慧や力や能力を無視しようとしているのか、どちらなのであろう? 喰わず嫌いという言葉があるが、この人たちは喰っていながら嫌っているという感じなのである。
 何故かというと、神という言葉自体を嫌おうと、肉体人間以外の智慧や力や能力を否定しようと、事実は肉体人間以外の力によって養われていることは、誰でも知っていることである。
 人間生存に無くてはならぬ空気でも水でも土地でも、一体誰がこれを創り出したのかということである。そういえば、この宇宙には、人間を生かしている数えきれぬほどの、各種の要素がある。
 太陽やも勿論だが、酸素や水素や炭素や窒素やカルシウム、ナトリウム、マグネシウムや燐やその他種々の元素がそれである。こういう元素を、それは私の智恵によってできたのだ、というほどの馬鹿が人間の中にいるだろうか?
 こういうどうにもならない事実を日常茶飯事にみせつけられていても、まだ肉体人間以外の智慧能力を否定しようとするなら、その人たちは底の知れない馬鹿者たちである、というより仕方がない。
 それよりもっと根本的ないい方をすれば、私たちを生かしているというより、私たちのそものである生命というもの自体が、肉体人間誕生以前から存在しているのだし、生命のない人間など考えられもしないのだ。そうした根本的な智慧や力や能力を、人々は神と呼んでいるのである。
 だから神を嫌おうと、神の存在を否定しようと、人間は誰もが、神の子であり、神の生命の分け命なのである。神は大宇宙そのものであり、大生命であり、大自然でもある。
 しかし、どうしても神という言葉にひっかかる人は、大生命に対して感謝してもよい。大自然に対しての感謝でもよい。それができなかったら、太陽に対してでも、空気に対してでも、水に対してでもよい。それもできなかったら、自分の体のどの部分にでもよい。眼がみえていてよかった、耳が聞こえてよかった、手足が働いてくれてよかった。考えられる頭をもっていてよかった、等々、どこかに感謝する気持を持つことによって、いささかなりとも、神とのつながりを得ていることができるのである。
 誰にもなんにも感謝のできない人は、生きながらの死骸である。しかし、神々はそういう人々まで救おうとして、世界平和の祈りによる大光明波動を地球界に放射しつづけているのである。この地球界が一日も早く、感謝の心と感謝の心とで融け合えるような、そういうものになるように私たちは祈りつづけなければいられないのである。

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「神への郷愁」より


今日は月の国集会 世界各国の祈りと感謝行、光明思想、印 そして心静かに49回の神聖復活の印を組む。


INFINITE PEACE

INFINITE HARMONY

INFINITE FREEDOM


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 例えていえば、ある新興宗教団の信者のように、その団体に入会させるために、相手の迷惑を何らかえりみることもなく、毎日のように強迫的言辞で、入会をすすめている人々や、神様神様といいながら、やたらに人の悪口をいったり、人をさげすむ行為をしたりしている人々と、別に取り立てて神仏のことをいわないのに、常に困っている人たちの為に骨身惜しまず尽している人とのどちらが、神のみ心に適っているかということを考えれば一目瞭然です。
 神のみ心を隠す最大のマイナスの心は、自我欲望です。自分自分と、常に自己の欲望中心の想念行為です。それは金銭欲、権力欲、その他欲と名のつくすべての想念行為がそうなのです。そうした欲望を、宗教の名を借りて達成しようとしている人々が、どれだけこの世の中には多いことでありましょう。
 私はこうした宗教信仰者と称する人々に会う度びに、宗教の堕落が嘆かわしくなるのです。宗教信仰とは、言葉でとやかくいうことではない。その人の想念行為が、神のみ心の愛と調和にどれだけ適っているか、そうした道を突き進んでいるかによって、その深さ浅さを云々でき得るものであって、どんなに上手な言葉で神仏を説いたところで、その人の声に出る言葉の中に、その人の宗教心があるのではないのです。
 上手に文章を書いた、うまいことをしゃべった、と、自分の書いたり話したりしたことの成果に満足していることは、宗教心とはなんの関係もないことで、自分の心が愛の光で一杯になっている。愛さないではいられない。人の為を思わないではいられない。理論や理屈で思うのではなくて、人の喜びと自分の喜びとがいつも一つになっている。人の悲しみと自分の悲しみとが一つになっている。そういう実感が愛の心であって、これが宗教心の発露であり、世界平和を祈る心でもあるのですが、もう一歩進むと、そうした愛念にも把われない、澄みきった心でいて、そうした愛念さえも消えてゆく姿として、祈り一念の心、神のみ心の中に住んでいられる程になってくるのです。しかしこれは宗教の極意であって、誰もがそうした心境にこの世でなれるものでもないのですが、窮極は、何もの何ごとにも把われず、自然法爾に、神…のまま、生きる生命そのまま生きてゆくということになり、その生き方が、すべての人々の為になってゆく、ということになってくるのです。
 こうした心境になると、良心にも悪心にもそんな区別の全くない、大調和した想念行為になってくるわけなのです。すべては消えてゆく姿、ただ在るのは神の生命、神のみ心のみということになっているのです。
 宗教の世界というものは、我欲の無い世界であるのですから、いたずらに神様仏様といったところで、それが自己の我欲達成のためにいうのであったら、これは宗教心の蔽われている業想念であって、自己を磨くことにはなりません。ですから、現世利益だけをいつまでも求めている新興宗教の信者は永劫に、真実の宗教心を発露することはできないわけですが、守護神の慈愛というものは、いつまでもそうはしておかないもので、いつかは、そうした現象利益だけではおさまらぬ想いが心の底から湧いてきて、もっと高度の宗教にいつかは導かれてゆくものなのです。

「信仰と直感」著五井昌久より

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世界人類が平和でありますように

日本が平和でありますように

私たちの天命が完うされますように

無限なる感謝



2018.04.03 宗教生活とは
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人間が真実の宗教生活に入り、意識的にせよ、無意識的にせよ、神との交流がすっきりした形で行われている場合は、生活の貧富にかかわらずその人は、心がおのずから明るく、自由に、不安の影なき 生活を送れるようになるものなので、宗教生活に入りながら、心に暗い影、恐怖の影があり迷いの想いにとらわれているようであっては、それは誤りの宗教生活であるのです。
 肉体人間の生活には、つねに死というものへの恐怖とそれにともなう様々な不安(老病貧苦など)があります。それは唯物論的生き方では、どうしても解脱し、超越し得ることはできません。
どうしてかといいますと、唯物論すなわち、五感に観ずる形の世界だけの探究では、真理を知り得ないからであります。
 いかに哲学的につき進んでも、その学問が行動として、実際体験にまで進まぬかぎり、その哲学は、ただたんに、知識欲を満足させるためだけであって、真にその人に真理を知らせるものではありません。真理を知るためには、ただ行為による体験的認識か、無我の全託かの二つよりないのであります。
 人間はいづこよりきたり、いづこにゆくか、人間とは一体何か、こうした疑問は哲学的疑問であり、これをなんらかの行動にうつして、自己全体で知ろうとするところから宗教がはじまるのであって、眼に見、耳に聞き、手にふれるこの現象生活の利害関係だけを問題にしての宗教入り、というのは、実は宗教の門に入ったのではなくして、いぜんとして、その人は唯物論の世界、肉体世界だけの人であるのです。ですから、神と人間との真実の関係や、与えられた生命の正しい生かし方を教えず、その場その場の現象利益だけを与えたり、あてもの的にものを教えたり、教わったりするだけで、宗教であるとか、宗教信者であるとか思ったりしたとすれば、それは、神のみ心にかなう生き方ではなく、業因縁的、たんなる生活の方法でしかないのであって、とうてい死の恐怖を超越する自覚や、それにまつわる不安にまけない自覚をもち得ることはできないのであります。
 その場その場の幸不幸だけを問題にして生活してゆくようでは、なかなか神への道に達することはできないのです。
 知識階級の人々や学者先生方の一部が、とかく宗教を馬鹿にしたり、問題にしなかったりすることは、現今までの宗教が、一般民衆の生活からはなれすぎたり超越しすぎていたり、形式的であったり、あるいは逆に現世利益的であり迷信的でありすぎて、崇高な精神的雰囲気を欠いていたりするからなのであります。真実に大生命(神)と人間(小生命)との正しい関係を説きあかし、人間が神との正しいつながりに入った時に、おのずから奇蹟と人々に思われるような現世利益が生じ、その信者の人々が、知らず知らず安心立命の生活に導かれているようなものがあったら、いつかはまじめに問題にし、探究してくることであろうと思います。
 宗教を口にする人々が、みなこのようになってくることを私はひたすら祈っているのです。

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「宗教と平和」 著五井昌久より

INFINITE PEACE

2018.01.01 2018
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・・
・・・
・・・・
・・・・・
・・・・・・
・・・・・・・
年があらたまったことによって
人はおのずから心に
新しい生きる力 新しい理想 新しい道への開発を見出そうとする
新年おめでとうございますと人々は一様に言う
めでたい人もめでたくない人も種々様々でありながら
新年を祝いたい心が日本人の心の中に潜在している

人間の命の流れは 川の水のように
昨日ここで見た水は 今見ている水とは違うのである
昨日の水は もうすでにどこか遠くに流れ去っているのである
人間のいのちも そのように間断のない光の流れであって
ひととことに留まっているものではない

肉体人間というものは
命の流れに各様の想いをのせて流れているもので
昨日の命は今日の命でないように 昨日の想いはまた今日の想いではない
したがって昨日のあなたは今日のあなたではない
昨日のあなたがいかような善事をなしたとしても
今日のあなたがしたのではなく
昨日のあなたのした過ちも
今日のあなたのしたものではない
だから昨日の善事に誇ることもなければ
昨日の過ちを嘆くこともない
それらはすべて消え去って行った想念行為にすぎない

人間は常に 今の瞬間瞬間を
正しく清く愛と真に満ちた生き方をしてゆけばよい
新年はそうした生き方をあらためて思い起こさることによってめでたい
元旦を契機として 人間は日々新たな命を生かしきってゆきたいものである

五井昌久

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世界人類が平和でありますように

INFINITE LOVE

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元日の美しい夕日の井の頭公園

INFINITE PEACE




眉をひそめてはいけない
      ―平和の祈りの新しい同志に!―

光明思想のあなたが
眉をひそめていてはいけない
眉をひそめて地球に暗い影を投げかけてはいけない
眉はいつでも明るく開いて
天の光を受けているもの
ひそめた眉からは暗い影しか生れてこない
眉目を正しく開き息を丹田にひそめておくと
自ずと本心が明らかになってくる
あなたも今は祈りの使徒
世界平和の祈りの中で
天の理想がやがて生々と現実のあなたの生活に輝いてくるだろう
その日がほれ もうそこに近づいているのだ

『純白』 五井昌久



今年もS木工から、軽トラック一杯の木の木端が来た。
使えそうなものを見つけながら降ろすのが楽しい。
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風が冷たい日。空気は澄んで甲斐駒ケ岳に沈む夕暮れは美しい。
s-2017-12-29 013hhhhhhhh


世界人類が平和でありますように

人類即神也

無限なる自由





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近来の中共をみていると、指導者をはじめ国民全般が、自国の在り方に非常に確信をもっているような、他国に対して物おじしない生き方をしているように見受けられる。
 イギリス人やフランス人の自尊心の高いのは、誰もが知っているところだが、アメリカ人なども、自国の在り方に高い誇をもっている。そういう欧米人が近来の中共に対して、辞を低くしているように感じられるのは、一体どんなところからくるのであろう。
 それは、個人の気まま自由を許さぬ共産主義政策の政治の圧力があるとはいえ、自民族の尊厳を守るという強い意識が、国民の生活に溢れていて、国民全体の中に毅然とした態度がおのずから生れ出でている、ということが第一の要素である。民族の尊厳を堅持しようという意識と、国を守りぬこうとする愛国心とが、中共の国力を高めているのである。
 一転、目を日本に向けてみた時、我々はそこに何をみるであろう。愛国などという言葉すら忘れた、自己主義の想いのままに、自己の生活のみを享楽しようとする大半の国民の姿をみるのである。
 自己の生活のみに心を奪われた、国や民族というものを忘れ去ったような人々がいかにこの国には多いか、思わず心が寒くなる想いがするのである。
 自民族のみを高しとする、選民思想もどうかと思うが、現在の日本人のように、なんらの国家目的ももたず、民族としてのなんらの誇をもたぬ精神的流浪者が多くては、中国民族の鉄のような民族意識を背景にした愛国的行動に及ぶわけもない。
 日本人全体に現在、第一に欲することは、世界に大調和をもたらすための和の民族である日本人の、その調和の心を国家目標として、そうした日本人の天命に誇をもってもらいたいということなのである。
日本人として日本国に生活している以上、日本を愛し、日本のために働く、という心を持たぬということこそ、不思議な心で、すべての国民が自己の生活のみに把われていては、国家も国民もともに滅びてしまうことは理の当然である。
経済の向上も勿論結構であるが、なんのために日本という国が存在するのか、自分はなんのために日本人としてこの世に生存しているのか、ということを、もっと真剣に考えてみてもよいのではないか。
 日本はあくまで調和を旨とする天命をもっている。今日はでの白人コンプレックスを捨て去り、日本人はその調和達成のために、自己の生活を生かしきってゆくべきなのであり、そういう人の多くなることを私は世界平和の祈りをしながら、思いつづけているのである。
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(昭和47年7月) 五井昌久随想集『行雲流水』より

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五井先生と政治
 先生は真理を説く宗教家の役目上、政治に直接かかわりあうことはありませんでした。しかし人類救済の一環として、政治にも深い関心をお持ちでした。先生は当時、民社党という政党を支持なさっておられましたが、それはあくまでも五井昌久個人としての信条であって、統一会のご法話などでは決して触れることはありませんでした。
*民社党 日本社会党を離党した右派系が、1960年、西尾末広を中心として結成した政党。民主社会主義・議会制民主主義を標榜し、階級政党を否定し、国民政党の立場を強調。はじめ民主社会党を名乗り、六九年に民社党と改称した。現在は存在しない。
 1968年(昭和四十三年)四月頃、船橋市在住の民社党本部顧問の吉川兼光氏が新田道場を訪れて、五井先生にご挨拶されました。かねてから五井先生の提唱されるところに共鳴され、間近に迫った参議院選挙に立候補することもあり、五井先生に色紙を頂いて喜んで帰られました。(色紙は「不動心」だったと思います)

 その当時ある雑誌社が、日本の主な宗教者にアンケートを出しました。

 その雑誌の一頁には先生の笑顔のお写真の脇に「『地球平和』運動を実践」というタイトルが添えられてあり、五井先生も四つの質問に明快にお答えになりました。

質問要旨とお答え

(1)宗教者として、いま一番、気がかりなことは、どんなことでしょうか。できるだけ具体的にご指摘ください。

(答)国民が日本本来の生き方である調和ということから外れて、思想的にも行動的にも分裂することを心配する。

(2)それはどうすれば、解決されるとお思いでしょうか。その方法を宗教界からの対応としてお聞かせください。

(答)地球平和をつくりあげるという一点に、日本の心を集中させ、国民をその目的に向って活動させることである。私共はそれを祈りによる平和運動で実践しようとしている。

(3)いまほど「生きがい」がもとめられている時代は他になかったように思えるのですが、宗教界からの「生きがい」についてのご助言をお願いします。

(答)今日は、一人一人の人間が価値をもっている時代であり、一人一人の力が大きく働く時になっている。その能力を神々の援助によって開発させることこそ、宗教者の大きな生きがいといえるであろう。

(4)その他、わが国の今日的状況に関して、お気づきの事柄について、ご意見をお聞かせください。

(答)わが国の今日的状況は、流れとして危ないところにゆくように見えるけれど、根本的にはそんな心配はないと思う。 左翼的思想、右翼的思想よりも中道をゆく生き方が日本人の心の奥にあるので、左翼的にも右翼的にもなりきったりすることはない。
 やがては、革新系に近い保守系の政党が出現して、日本も理想的な姿になってゆくであろう。しかし、もっと全体が深い宗教信仰心をもたなければならない。

【「ある日の五井先生」清水 勇 著より】
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半世紀も前のお話なのだけれど、政治の世界は今だほとんど変わらない・・・・

果たして、革新系に近い保守系政党とは・・・・・・・

わたしはコスモポリタン(地球人)としての意識で地球の平和を作り上げる日本人であり続ける。

INFINITE LIVE

INFINITE HARMONY

第245回八ヶ岳月の国集会、神聖復活の印を49回入れたプログラムに変更。

INFINITE GRATITUDE




2017.09.19 これからだ
変わらず、第3火曜日は祈りの集会であります。
今日は5人でありました。少ないながらも素直に行事て継続していくだけであります。

ということで五井先生の「これからだ」のひびきに勇気をもらいます。
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これからだ

あたらしい世界が展けてきそうな
そんな気配を近頃あなた方は感じないだろうか
神に離反の心が戦塵となり戦後の混乱となって消えつつある
日本から
ほのかに立ち昇っている救世の光が
時に紫金に時に白光に
あなた方の周囲を照しはじめているのを
あなた方はまだ知らない
勝利に驕る心はやがて砕かれ
戦力に頼る国々は自ら滅び
愛を権力に売る人々からは神の恵みは去り
怯懦(きょうだ)なる心は光を隠す

あらゆる飾りを払って毅然と天空に向う
あの裸木のように
厳冬を越ゆる決意を堅め
生命を蔽うすべての虚色を捨て
光を隠す雑多な衣をぬげ
日本の新生はそこからはじまり
あなた方の幸せはそこから芽吹く

日本よ
日本人よ
お互いにしっかり愛国の手を握り
無構えの裸心でただ天空を見よう
裸心には敵はない
天空には暗はない
ものほしそうに左右を見るな
物質界の声を聞くな
あなた方は心の眸を見開き
天から真直ぐに下りている
白光の柱を見出すのだ
深い生命のひびきは

その柱を通って地上にひろがり
あなた方の真我と融合し
人類真実の生き方を
はっきり世界に指し示すのだ
 
『いのり』所収


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INFINITE LIGHT

INFINITE HARMONY




2017.07.18 心をきよめる

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 近頃は、汚職とか収賄事件で、種々の人々が新聞面を賑わしているが、新聞やテレビに現われている人々は、実際に汚職や収賄をしている人の中の僅かの人数で、いわゆる運の悪かった人々といわれているのである。
 そして、こうした事件を引き起した面々の悪口がさかんにいわれるわけで、口ぎたくなくののしっているわけなのだが、果して、悪口をいい、口ぎたなくののしっている人たちが、自己の心を深くさぐってみて、自分がもしそうした立場に立ったら、絶対に汚職や収賄をしないといい切れるか、というとそうでもなさそうである。
 人間の心というものは頼りないもので、権力欲や物質欲に把われがちなのである。ただ法律に触れるとこわいという臆病な心で、汚職や収賄ができない、という人がかなり多いのである。
確かな正しい心で、やましい想いを出すことが少しもない、という人物はなかなかないものなのである。肉体をもった人間というものは大体利害得失で動いていることが多いので、よほど心がしっかりしていないと、つい贈収賄とか汚職とかいうことをしかねないものなのである。だから、やたらにそうした罪を犯した人の悪口雑言をいうより、そういう事件のあるごとに、自己の心をふりかえってみて、自己の心の中の小さな欲望でさえも浄め去っておくようにすることが大事なのである。
 あらゆる欲望に打ち勝つためには、常に自己が神の分生命であることを思いみて、神の完全円満性の中に,自己の想いを入れておく練習をする必要があるのだ。その方法を祈りというのである。
 自己の中の欲望をひたかくしにしておいて、人の悪だけを認めているようでは、とてもその人は神のみ心に入りきるわけにはゆかない。神のみ心に入りきらなければ、人間に真実の平安がくることはないのだから、誰も彼もいつかは神のみ心に入りきらなければならないのだ。そのためには、どうして 自分の心も他人の心も正直に認めて、自己の中にある誤った想念も、他人の誤った想念をもそのさまにしておいてはいけない。誤った想念は、すべて神からきたものではないので、それは消えてゆく姿として、祈りの中で神の大光明によって消していただかなければいけない。すべてをごまかして、いいや、いいやというような態度ではいけない。自他ともに、悪想念はすべて消し去っておかねばいけない。
 自己の本心を祈り出し、他の人の本心を祈り出してゆくことによって、この世はやがて清らかな世になってゆくのであって、やたらにお互いが他の悪口雑言をしているようでは、とても立派な世界ができるわけにはいかない。

神への郷愁 五井昌久著 より

毎日訪れる夕暮れ、今日もその時間が来た。そして今日も空が茜色に焼けてきた。
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変化してゆく光の中で、自然への想いと神へ想いが重なり合って、生かされていることへの感謝が湧き上がってくる。
月の国集会、新しい印が始まった。
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INFINITE FREEDOM



自然

静かにしていていいのだ
黙っていてもいいのだ
声高に情熱的に人を説きつけなくともいいのだ
あなたはあなたの優しさをそのままに
柔らかな微笑で人を見つめていればいいのだ
いかに狂熱的に人々を煽りつけても
どんなに巧みに人を誘い込んでも
そんな事で神様が人々に判るものではない
冬から春に季節が巡って
自然に花が開くように
風がいつしか温んできて
人々が自ら胸をくつろぐように
あなたの優しい愛念が
巧まず誇らず気負いもせず
いつも変わらず柔らかくそして豊かな温い
微笑をふくんだ物腰が
やがては頑くなな人々の
心のしこりをときほぐし
知らず識らずに神のみ手に
己が想いを投げかけさせる

あなたはそのまま静かにしていればいいのだ
黙って微笑していればよいのだ
そして心の中で
人々が神様の姿を一日でも早く現わします様にと祈りつづけていればよいのだ 

                                                   詩集{ひびき」五井昌久







政治の世界は誰が見てもわかる嘘がまかり通ったり、自国だけが良ければいいといった考えがまかり通る何とも悲しいありさまで、こんなレベルの政治がまかり通るならば、地球世界は危うくなりかねないのである。だがしかし、政治が世界を作っているわけでもなく、一人一人の意識が世界を作り上げているのであるから、心乱さず、心静かに、不動心で大調和世界に意識を向け祈り暮らしてゆけば、必ず調和世界ができてゆくのである。


INFINITE HARMONY



2017.05.02
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場を浄めよう  
  五井昌久


大宇宙の

あらゆるところに

それぞれの場がある

天の理念を地に現わす

大調和実現の場は一人一人の世界平和の祈りの中にある

この地球世界のひとところにでも

戦争につながる場があってはならない

一人一人の心の中に戦争か平和かの場があるのだが

人々はそれを知ろうとはしない

アメリカを責め中共を責め日本の政府に抗議をするよりも

自分の心の中の戦争原因を撲滅することが先決なのだ

人を傷つける想いを出しながら

争いの想いをもちながら

世界の平和ができるものではない

人類の一人一人が真実に自己の生命の場を光明化してゆくことこそ

何んにまして世界平和達成の大きなしごとなのだ

想いを不安にしてはならない

人を怨み憎んではならない

卑下高慢いずれも自己の本心から出ずるものではない

すべてを消えてゆく姿と観じた時

本心の輝きが増してくる

世界平和の祈りは個人人類同時成道の祈り

私たちはすべてをこの世界平和の祈りに託して日々行じているのである

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(「平和讚」所収)


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうが材ます




2010-05-24 018

(一)

人間は神の分霊であり

神そのものであるのです

昔 常不軽菩薩という人がいました

すべての人にむかって

あなたは仏さまです 菩薩さまです

と拝んで歩きました

すると拝まれた人たちが

何 オレが仏菩薩であるものか!

と怒って 石をぶつけたり 棒で打ったりした

石をぶつけられ 棒でなぐられ 逃げながらも

あなたは仏さまです

あなたは菩薩さまです

と本当の人間の姿を拝んだということです

お釈迦さまの前生だということになっています

ほんとうはこのように

人間を神さま! と拝めるようにならなければいけない

ところがそんな奴を神さまと拝めるか というのが多い

顔をまともに見ては 神さまと思えない

それは相手の消えてゆく姿の部分を見ているんです

それを見ていてはいつまでたっても神さまは見えない

そこで私はどうさせるかというと

人間を見る場合

その人の肉体を見ない

肉体のうしろにいる守護霊さん守護神さんを見させる

息子が不良でしょうがない とすれば

息子のうしろの守護霊さんに

“守護霊さん有難うございます

息子の天命を完うせしめ給え“ とやる

夫が道楽者だとすれば

"夫の守護霊さん ああご苦労さまですね

こういう業の固りをよく守って下さいまして

有難うございます

どうか夫の天命を完うせしめ給“ とやるんです

そうすると 知らないうちに

相手の守護霊と自分の守護霊と一つになり

守護霊の力が 夫なり子供なりに働いて

業を消してゆくのです

夫が祈らず

子が折らず

妻が祈らないとするならば

自分だけでいいから

世界平和の祈りをするんです

その時に

迷っている夫 迷っている子供の名を呼んで

そのうしろの守護霊さんに頼むのです

それをつづけることです

そうしますと いつの間にか立派になります

必ず立派になりますよ  

私のやり方は易行道なんです

むずかしいっていう人があるけれど

むずかしいといえば何んだってむずかしい

人間悟ろうとするのはなかなかむずかしいです

むずかしいけれど私のやり方は一番やさしいんです

何故かというと

悩みをとってから拝め というのではない

悲しみをとってから拝めというのではない

汚れを清めてから拝め というのではないのです

汚れたままでいいんだ

病んでいるまま

悩んでいるままでいいんだ

そのままで世界平和の祈りの中に飛びこめば

世界平和の大光明がそんなもの問題にしなくて

消してくれるのだ

そう信じておやりなさい と教えているのです



神の子の人間なのだから

神さまが絶対に救わなきゃいけない

全部救うために

守護霊を遣わし守護神を遣わしているんだから

救うのは当り前

救われるのは当り前なんです

ただ消えてゆく姿ということが本当にわかれば

みんな救われちゃうのです


(二)


"世界平和祈る忽ち祈り人の姿光につつまれてあり"

という私の歌があります

どんなに悪いことを想っていても

自分がどんな業想念につつまれていても

あいつ嫌いな奴だ 死んじまえばいい と思っていても

世界人類が平和でありますように といったらば

自分は光につつまれているのか

という質問がありました


どんなに悪い想いが片方に出て来ても

世界人類が平和でありますように

という想いがあれば

それは光につつまれているのです

光につつまれているけれども

自分の中の光と

外の守護霊守護神の光 救世の大光明と

ぴたっと一つにならないと安心しないのです

やっぱり揺れているような気がするのです

ところが

世界平和の祈りをやっていると

中のものが世界平和の祈りをやるんだから

外の救世の大光明と合体してゆくわけ

合体してゆくうちに

だんだん光がひろがってゆく とともに

業想念がだんだんへってゆくのです

へってゆけば

なんか安心立命した

心からああ私は救われているんだなァ

ということが

貧乏なら貧乏なりに 病気なら病気の中で

ああ私は神の子なんだな

ということがハッキリわかってくるのです

だからやらなければだめです

どんな悩みの中にあっても

どんないやな想いの中にあっても

貧乏の中にあっても

病気の中にあっても

世界平和の祈りをしていれば

その人の周囲はズーッと光につつまれているのです

これは間違いもないことです

だから安心して世界平和の祈りをやればいいのです


(「大決意」所収)

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今日は、世界平和を祈る月の国集会でありました。 6人で平和を響かせ、祈りによる平和運動がより多くの方々に賛同していただけることを、この肉体が消えてなくなるまで広めてゆきたいと思うのでありました。




INFINITE PEACE

INFINITE HEALTH




 

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人間という者は欲望をなくせ、といわれても、なかなかなくせるものでなく、
恐怖するな、怒るな、哀しむな、執着するな、といわれても、その性情が容易なことでなおせるものではありません。  

法然、親鸞は、そうした性情をなおせなどとは少しもいいません。 

私たちもあなた方も、そうした肉体人間の想念感情においては、同じことなのだ、
そのような想念はどうでもよい、
怒ったら怒ったまま、泣いたら泣いたまま、
ただひたすらに南無阿弥陀仏と称名しなさい、

称名さえすれば、あなたがたは、極楽浄土に救われてゆくのだ、と教えているのです。 

 これは法然、親鸞が肉体想念(業生)と本心(仏心)とをはっきり区別して知っていたことを現わしています。




『日々の祈り』 五井昌久著 高橋英雄編 より




INFINITE LOVE




世界人類が平和でありますよう






2016.10.11 祈りと統一


世界人類が平和でありますように

天皇のいる国 日本。
やはり普通の国とは違う。
それはいったいどういうことなのか、
日(霊)の本の国 
大和の国 の天命
大調和精神の国
日本国の一人として21世紀の道を歩んでいきたいと思う今日であります。
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五井昌久先生の法話であります。平和憲法についても言っておりますので聞いてください。



世界人類が平和でありますように


INFINITE LOVE



2016.07.26 大決意
大決意

文明文化が進んでくると
自分でやらなければいけないことを
人にやらせたり 機械にやらせたりして
自分では悪いことをしていないような感じがする
たとえば
個人的に喧嘩して人を殺してしまえば
悪いことをした と自分でとてもいたみます
ところが国でやったということになれば
ちっともいたみません
人を殺しても 爆弾を落としても
いたまないわけです
それだけ人間はずるくなっている

ずるくなっているということは
表面に 悪いことも全部浮き上がってきているということです
というのは
宇宙の大変化の時ですから
波動が変わって来て
光りが余計に入って来て
内から押し上げて
地獄がそのまま肉体界に浮き上がっちゃっているのです
地獄はもう底にはないのです
地獄も天国も一緒のところにあるのです

地獄が浮き上がって来ているので
悪いことでも やること為すことがすべて大きい
たとえば今迄 喧嘩で殴っていた
それが今はロケットで核爆弾をとばす
ということになって やることが地球的規模になっている
地獄が現れているということは
消えてゆく姿で
やがては消えてしまう
底にかくれていたら
なかなか消すわけにはゆかないけれど
一遍 光で追い出して
表面に出してしまったわけですから
今度は 消す番なのです
本当に世界平和が出来る立場になるわけ
潜在意識の奥の奥に入っていた
人類の底にひそんでいたものが 全部出て来たんですから
ここで間違えれば滅びるわけです
たけども 神さまの方では
”滅ぼさない“とおっしゃっているんだから
滅ぼさないに決まっています
それで世界が本当に平和になるわけです
そのための祈りによる世界平和運動であり
宇宙子波動生命物理学の誕生なのです
ですから私たちのやっている運動というのは
世にも得難い大運動なのです
ただあまり やれやれとはっぱをかけないから そう感じないけれども
世にも得難い大運動です
といって家を捨ててやれ というのではない
家のことは少しぐらい犠牲になっても仕方ないけれど
あまり無理をしないでやって下さいというわけですが
世にも得難い大運動なんです
今にだんだんわかってきます
みんながやがてついて来ます
他に無いからです

コピー ~ asaasa


~中略~

光明思想と暗黒思想というのがあるんです
光明思想がそのまま進めば暗黒思想はなくなっちゃう
ところがみんなは光明思想を使わない
それで武器を使おうとする
権力か金力か武力でもって
世界を押えよう 世界を平和にしようと思う
武力 金力 権力では絶対に平和にならない
何故かというと
武力 金力 権力というものは暗黒思想なのです
人を圧迫しよう
力で人を屈服させようとする
そういう間違った考え方を暗黒思想というのです
暗黒思想と暗黒思想が戦っていたって
いつまでたっても光明になりません
平和になりません
日本はそんなバカなことに仲間入りしてはいけません
いくら共産主義が暗躍しようと武力でもって対そうなんて
ケチな考え 暗い考えを起こしちゃいけないと
私は叫んで 
祈りによる世界平和運動を展開しているわけです
私どもの運動というものは
あくまで大光明思想で
光明思想一点ばり 平和思想一点ばり
死のうが生きようが
病気にかかろうが 何をしようが
私は祈りによる平和運動を推進してゆくのだと
大決意をしているわけで
皆さんもそれに賛同しているわけですね
それ以外に救う道はないんです
そして最後に宇宙子科学が出来てきますから
解決するわけです
そういう運動を展開しているわけです

皆さんのよくよくこれを承知して下さい
これからいろんなところから話が来ると思うのです
このままいけば共産主義にやられちゃうじゃないか
武力を持たなければダメじゃないか
とかいってくると思います
しかしそれは一応の理屈だけれども
本当の平和思想ではないんだ
ということをあくまで皆さんの胸に収めて
祈りによる平和運動
人間の想い 日本人の想いを
平和というもの一つに結集する
ひとまず日本人全部が平和を祈願する
平和の祈りに結集されてしまう
というところまでみなさんが持っていけかなければいけない と思うのです

s-2016-04-07 037as

大決意(五井昌久先生の講和)より
s-2015-06-27 110


今日も1日、外で汗をながし、夕暮れが来た。刻一刻と変化し夜に向かう時間は、私には、特に神聖な時間である。肉体は疲れ切っているものの精神は静寂に包まれ、雲と光の変化の中に吸い込まれ、消えてゆく。
家の中からもう寒いから家に入れと家族の声が聞こえる。
まだ3月の山風は冷たく、その風に五右衛門風呂の薪の燃える香がしてくる。
しばらくすると、太陽は森の彼方に消えすっかり暗くなり、風呂も沸いたのですぐにはいればとまた家族の声が聞こえ、現実世界に戻ってくる。
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夕雲の独白 
          五井昌久
s-2014-04-01 124

私はいつの間にか雲と云う名で
ぽつくりと大空に浮んでいた
どうしていつからここに浮かんでいるのか私は知らない
今夕陽に照らされて真紅に燃えている私の体は
私と云うひとりのものではなく
実は私たちと云う複数

果てしもない虚空に一群れ一群れ浮かんでいる私たち
私たちは陽に酔いながら
地上界を見降してみる
かつては種々な形で私たちも住まつていた地上界の様々な生物の営みが
私たちの心に浮かんでくる
やがて暮れようとする地上界の街々の
あわただしい動きの中に
私たちは人間たちの生活の息吹を感じ
生きのいのちの愛しさいじらしさに
祝福の言葉を送りたくなる

悪に染みても汚れても
生くるだけは生きねばならぬ哀しき肉の身
かつての私たちが
一粒一粒の雨滴となつて天降り
寄り集つて濁流と化し
家々を壊ち人々を傷つけ損ねたことが思われる
天地の因果と人間の因果
これは果して善か悪か
単なる自然の営みの一駒か
私たちは只大自然のすべてが慈愛によつて運行されていることを信じている


私たちは地上界をみつづける
地上の家々に灯がともり
私たちの姿がすつかり黒ずんできたのだが
私たちは地上の人たちとのつながりをなつかしみ
私たちも人類も
今日までの輪廻転生を超えて
青天白日の身になるのには
神時間と云う時間経過を経なければならないのだと
いつまでも地上界を見降しつづけていたのであつた

                           詩集「いのり」  所収



世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私たちの天命が完うされますように
守護霊様ありがとうございます
守護神様ありがとうございます










・・・・
・・・・・
・・・・・・
・・・・・・・


年があらたまったことによって
人はおのずから心に
新しい生きる力 新しい理想 新しい道への開発を見出そうとする
新年おめでとうございますと人々は一様に言う
めでたい人もめでたくない人も種々様々でありながら
新年を祝いたい心が日本人の心の中に潜在している

人間の命の流れは 川の水のように
昨日ここで見た水は 今見ている水とは違うのである
昨日の水は もうすでにどこか遠くに流れ去っているのである
人間のいのちも そのように間断のない光の流れであって
ひととことに留まっているものではない

肉体人間というものは
命の流れに各様の想いをのせて流れているもので
昨日の命は今日の命でないように 昨日の想いはまた今日の想いではない
したがって昨日のあなたは今日のあなたではない
昨日のあなたがいかような善事をなしたとしても
今日のあなたがしたのではなく
昨日のあなたのした過ちも
今日のあなたのしたものではない
だから昨日の善事に誇ることもなければ
昨日の過ちを嘆くこともない
それらはすべて消え去って行った想念行為にすぎない

人間は常に 今の瞬間瞬間を
正しく清く愛と真に満ちた生き方をしてゆけばよい
新年はそうした生き方をあらためて思い起こさることによってめでたい
元旦を契機として 人間は日々新たな命を生かしきってゆきたいものである

s-2016-01-15 028aas



世界人類が平和でありますように

INFINITE LOVE

何度も何度も読んで読んで、わが肉体に言い聞かせています。

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 平和運動というと、衆を集めて会を開き、討論をし、決議案を出して、声明したり、反対賛成の抗議をしたり、あるいはデモをしたりするように考えられがちですが、本当の平和運動というのは、業想念を消し去る運動が一番で、業想念の波つまり神様のみ心に反する不調和の想いが一杯ある。そういう想いがあるうちは、どんな決議を出してもだめなんですね。
 やろうと思っても出来ない。自分では本当に愛したいのだけれど、愛せないというのがある。やろうと思うことがやれない。やらなければいけないな、と思うことがやれないことが随分あります。そのやれない想いというのは、やっぱり業なんですね。
 そういう場合にどうやったらいいか。無理にやれば余計な摩擦を生じさせて、体にその影響が来るとか、心が痛むとかなってくる。だから私達はそういう無理をしない。まず業想念を消し去る運動をやっているわけです。
 それにはどうしたらよいか。ただ祈ることより他にないです。
 人間というのはおかしなもので、言葉でしゃべったり、体を動かしてやらないと、働いているような気がしないけれども、実は寝ていても働いている。
 働き者は眠っていると無駄をしたように思うのです。ところが眠らなければ体が参ってしまう。眠っている間に体力が回復して、 一日の働く力が出てくる、カが湧き上ってくる。眠っている時というのは、働いている時間と同じように人事でしょ。働いている以上に人事なわけ。
 そこで今度は祈りということになる。黙って坐って祈っているから、全然働いていないかと思う。ところが祈っている時には、肉体がガタガタ働いている時の何百倍何千倍というような働きをしている。生命がうんと働いているのです。宇宙に向って働いている。光をうんと蓄えている。光をうんと蓄えてあるからこそ働ける。
 祈りとか睡眠とかいうものは、そういう力のエネルギーを蓄えておく時間なのですよ。その蓄えによって、肉体の働きがチョコッと少し働いても、すごい働きになるわけなんです。それを蓄えも何もしないで、只肉体だけを動かしたって、百円の資本で働くのと同じで、たいした利益はないんだ、とこういうことになるんです。
 やっぱり肉体が働く予備運動としても、蓄積する資本としても、祈りというのが大事なのです。祈りがなくては、肉体は本当の働きが出来ないのだ、祈りによって神様の霊的大光明を蓄積しておいて、それで働き出せば、肉体を忙しく動かさなくても、素晴しい働きが出来ているんだ、ということなんですよね。
 私達の運動というものは、祈りが根本というより、祈りがすべてですよ。祈りからすべてが発生するという、そういう運動なのです。


著者紹介― 五井昌久 ごいまさひさ



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 今日まで、武というものは、すべて戦うためのもの、荒々しいものとしてみられていたが、植芝盛平先生が合気道をひろめられてから、武というものが、実は絶対調和への道、世界平和のためのものであるということが、はっきりしてきた。
 植芝盛平先生と私とが、全く一つの心に融け合っているのも、合気道と世界平和の祈りとが、現われの形が異なってはいるが、その根底において全く一つのものであるからなのだ。
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 合気道の実技をみていると、虚が実の前に消えてゆく姿となってゆくのがよくわかるのである。光の前に暗はなく、調和の姿の中に不調和は存在し得ない真理が、その技のうちにそのまま現われている。
 この世は力の関係だから、武力の均衡が破れれば、戦争が起こる、といわれるような、そうした武力でない、そうした相対的な武力を超えた大調和の力を、個人個人がその場で現わし得ているのが合気道なのである。
 相対的な力と力の関係は業の波の世界のことで、いつかはその均衡が破れて破綻を来すことは必定なのだが、合気道のもつ力は、相対的でない、大調和の世界から流れでてくる光明力であって、調和していない業想念をもった行為は、その光明力の前にみずから勝手に消え去ってゆき、形の上においては、打ち掛かった相手が、打ち掛かった業の力だけの損失をまねくのである。
 この合気道の道は全く真理なのであり、世界平和の祈りによって、病気や不幸が知らぬ間に消え、いつの間にか敵対していたものが消え去り、安心立命の生活がおのずからひらいてくる、というのと同じ真理なのである。
 すなわち神一元、大調和統一の姿しか、この世には無く、あるようにみえている不調和、不完全の姿は、過去世の業想念行為が、今現われて消えてゆく姿にすぎないのだ。
 だから、そうした消えてゆく姿を掴んで、ああでもない、こうでもないといっているより、合気の道に入り、世界平和の祈りの日常生活から、自分たちの生活を踏み出してゆくことが、この世を天国、神の世にするための真実の道であることは、明らかな事実なのである。

 絶対調和の道、敵のない光明の姿が、いかに心強いものであるかを如実に示している、合気の道こそ、世界平和の祈りと等しい常住神我一体の道であると私は思っている。この道のみが、世界を平和にする道であることを私はかたく信ずるものなのである。
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『心はいつも青空』五井昌久より




いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず、世界の平和をただただ祈る第222回八ヶ岳月の国集会でありました。


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